埼玉でもクマ警報
最近は全国的にクマの出没が問題になっていますね。ニュースでも度々取り上げられます。僕の生活圏内でも普通に目撃情報がポンポンあがってきて驚きました。
腐っても埼玉、ここには人がいっぱい住んでんねんで!と言ったところで山を下ってきた熊にとって知ったことかというところでしょうか。
早く山に帰って欲しいなぁ。でもどうせ山にはドングリ少ないんだろうなぁ。
花粉症無くす宣言していた政治家は奥山の杉や桧を全部ナラの木とか樫の木に変えてくれたらいいのに。奥地がパラダイスなら動物たちも出てこんだろう。まぁそんな簡単な話じゃないんだろうけど。
というかナラとか樫の木って毎年同じようにドングリが出来るんじゃないんですって!基本ドングリを食いつくされる木には木なりの生存戦略があるそうで、ある周期でドングリがドンッと実る豊作の年を作るそうですよ。その年で重点的に数を増やそうと試みるのでしょうね。
でもそのおかげで動物たちも腹いっぱい食べれて、無事個体数を増やすってわけ。
そしてその翌年ですよ。木はドングリをつける量を一気に絞るそうです。天敵が増えすぎないように調整を入れるために。怖くないですか。その賢さたるや、もう実質トレントやんけ。
今年の異常な熊の目撃報道を見ていると、きっと昨年がドングリが豊作年で、今年は生産量を絞る凶作の年なんだろうなとなんとなく想像しました。
しかし、熊関係のニュースって嫌ですよね。なにが嫌って世論が荒れるのが嫌です。
そりゃ可哀想だろうよ
僕どうしても理解できないのが、クマを可哀想だと言うとバカ扱いされることなんですよね。
「ドングリが全然なくて人里に下りてくるなんてクマ可哀想!」って言えば、「なにが可哀想だ!奴らは猛獣だ!お前はバカじゃないのか!」みたいな対立構造があっという間に生まれるじゃないですか。あれめっちゃムカつきますよね。
『食えなくて腹を減らしている動物が可哀想』って至極当然の感情じゃないですか。しかも最後は撃たれるし。
もっと腹立つのが「クマを可哀想とかいう人々は地域住民の恐怖に対する想像力が足りていない」とか上から目線でこちらの脳みそのデキまで貶めてくるタイプですよ。
違うのよ、想像のベクトルが違うんだよ。地域住民の不安よりも腹減って辛い気持ちを強く想像してんだって。
腹減って飯を求めた先に撃たれたらそりゃ可哀想以外のなにものでもないだろ。
想像力が足りていないのは市役所のクレーム入れるような一部の行き過ぎた業務妨害の民たちであって、熊の苦難に心を痛めているのはむしろ想像力が豊かと言っても過言ではないと俺は思うぜ。
こんなこと言っているとまた屁理屈言ってくるんですよ。
苦しいのはクマだけじゃないとか。やれ虫や植物はどうなんだとか。お前は肉を食っているんじゃないのかとか。これも超絶ナンセンス。
人間なんて感情の生き物なんですよ。クマは可哀想だと思いながらも蚊取り線香を使うのは理屈じゃなくてそう感じちゃうから。それ以上でも以下でもないのです。矛盾を抱えずして何が人間だ。
なんにせよ、お互い攻撃し合うのはやめたいもんですね。
例えばクマが撃たれた時ですよ。撃った人も使命があってやっていることですから「なぜ撃った!」なんて責めるような言い方しちゃ駄目。まして役所に苦情入れるとかはガチで頭がおかしい。
だけど悲しげな顔で「クマ可哀想…」くらいの気持ちを表明している人に対して、いきなり「何が可哀想だ!バカじゃないのか!」とか言ってブチギレる人ももうちょっと攻撃性を抑えて欲しいと思いますよね。
やっぱりね、奥山にどんぐりパラダイス作るしかないよ。実際クマが人里に出たら危ないんだから。国家プロジェクトで奥山と里山の整備予算を確保しよう。
ここは俺が新党『日本の山の党』を立ち上げねばならぬか。初期のN国党並みに目的がハッキリしているから有権者にとってもわかりやすいだろう。
おじーでした。