全ての感情はヤバいで表現できる。
そもそも言葉はなぜ生まれたのでしょうか。
言葉というものを一人で呟いていてもそんなに意味はありません。
やっぱりコミュニケーションツールとして生まれたんでしょう。
そう思うと、人に自分の思っていることを伝えるために色んな言葉が生まれたんだなぁとしみじみ思います。
美しい花や風景を見て、その感動を人に伝えるための言葉が生まれ、美味しい一品を食べた感動を伝える言葉も生まれました。
そして言葉も時代とともに進化していき今は令和。
感動は全て「ヤバい」で表現できるまでに至りました。
こりゃあヤバい。
嬉しいことも悲しいこともみなヤバい
今更説明するまでもないし、若者言葉とは呼ばれているものの、全然若者以外も使っている「やばい」。
守備範囲がマジやばいです。
飼っている犬が脱走して行方不明に!ヤバい(困惑、悲しい)
勝手に帰ってきた!ヤバい(安堵、喜び)
こんな感じで一言でヤバいと言っても嬉しいことも悲しいことも包括しています。
大きな古時計2020Ver.がリリースされたら「ヤバいこともヤバいことも皆知ってる時計さ~」と歌いながら、発声と顔芸で意味を伝える歌にすることも出来ちゃいます。
今日はこの「ヤバい」について考えていましたが、全ての意味を包括するすごく使い勝手が良い言葉の反面、その便利さが弱点となっているのではないでしょうか。
複合条件に弱くてヤバい
例えば僕が美味しい鉄板焼を食べているとしましょう。
A5ランクのブランド牛です。
ここで僕が「ヤバーい!」と言えば、その意味は一つ。
満天青空レストランのように美味さを表現しているに決まっています。
では、もう少し視野を広くしてみましょう。
鉄板焼屋の店員さんが半裸のムキムキマッチョのイケメンだったらどうでしょう。
僕が「ヤバーい!」と言えば、その意味はそのまま二つになります。
美味いのか、筋肉を賞賛をしているのかわからなくなります。
更に鉄板焼の他に僕がテキーラをしこたま飲んでいたとしましょう。
もはや全くわからなくなりました。
肉が美味いのか、筋肉を賞賛しているのか、酔っ払っていて辛いのか、もう吐きそうなのか。
「ヤバい」は万能ゆえにまた、それが弱点となり得ます。
受け取る側が空気を読めよという声もあるかもしれません。
しかし世には敢えて空気を読まないという層も少なからずいます。
受け取る側に良いように解釈されかねない
全ての意味を包括するが故に、自分が考えているヤバいと相手の受け取るヤバいの見解に相違が生じる可能性があります。
時は近い未来。記者会見にて。
「総理!彼の国が我が国の領海を侵犯してきた件についてどうお考えなのですか!」
「はい、これは誠にヤバい事態と認識しています。外交ルートを通し、ヤバいほど言っておきます!」
こんなコメントを出した翌日の朝刊は何が書かれるでしょうか。
きっと各社が「ヤバい」を都合よく解釈し、読売・産経の見解と朝日・毎日の見解がまるっきり真逆に書かれて世が混乱することでしょう。
多くの意味を持つ便利な言葉は、時に都合よく解釈されてしまう可能性があります。
なので大事な局面ではもっと限定的な言葉を選ぶべきということになります。
相手に委ねてはいけません。
こんなことを真面目に書いている俺がヤバい
なにがヤバいって言語学者でもないのに単語についてあれこれ考えているサラリーマンがヤバい。
しかもヤバいという言葉の乱用に警鐘を鳴らすかと思いきやそういう訳でもなく、進んで乱用しているところもヤバい。
特に伝えたいメッセージがあるわけでもなく思いついたことをただキーボードにぶつける姿勢がヤバい。
そして最後までこんな文章に付き合ってくださったあなたは最高にヤバい。