おじ語り

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ハードルの低い大人軸こそが人生の納得感につながる

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なりたい大人像なんてなかった

はてなブログの今週のお題が「おとなになったら」ですって。子供の頃どんな大人になりたかったか等々、好きに語ってくれとのこと。

こういうテーマで人に語ってもらうと一番よく見かける表現って「子供の頃思い描いた大人には全然なれていない」みたいな切り口ですよね。あれ僕は正直なところ全然共感できないんですよ。

そもそも大半の『大人たち』を反面教師だと思っていましたからね。

ゆとり世代のど真ん中。先の見えない不景気からくるストレスのはけ口か、子供の頃から世代丸ごとメディアから『これがゆとり世代の特徴です』みたいに散々バカにされながら我々は成長してきました。

だから「今の若者は~」って否定するような論調はすごく嫌いです。死ぬまで言わないようにしようと心に決めている。

現在の必要以上に個性を尊重しようぜって社会も、やたらデカいカテゴリに誰も彼もを乱暴にポンポン放り込んできた反動なんじゃなかろうかとすら睨んでいます。

今はZ世代だなんて言葉がまた流行っていますが、あんなカテゴライズもしない方が絶対いいですよ。彼らも世代でくくらないで俺を見てくれや!ってきっと思ってますもん。

一方でもっと狭いところでは、ちゃんと個別に子供の良いところをしっかり見つめて褒めてくれる大人もいたわけです。そういう人々のおかげで明るくまっすぐ成長できました。

なので『大人』と言っても良い奴、嫌な奴色々だな。ちょっと嫌な奴の方が多いな。くらいのイメージだったので、広い意味での大人像ってのは持ってなかったんですよね。

とは言え、俺は俺だ!大人って言葉でくくるんじゃねぇ!なんて言い出したらそれは全くもって大人ではないので、いつからか自分の中での大人軸くらいは装備しましたよ。

働いて税金払えば立派な大人

この書き方だと誤解を生みそうですが、あくまで自分の為の主観的な自分軸としてこう思っているよということなので、当てはまらない人を否定するものではありません。

働いて税金払っていればもう立派な大人。十分に責務を果たしている。こう思っていると生きることへの肯定感が非常に保ちやすいです。

青年期はけっこう考えていた気がします。『俺は何のために生まれ、そして生きているのか』そんなアンパンマンのマーチみたいなことを。自分の存在価値ってなんだろうという自問自答ですが、いや実に大袈裟でしたよね。

日々仕事してちゃんと税金払って、社会保険料も納めているんです。日本の年金は賦課方式だ。もっと言えば俺の給料で買った商品の売上で生活している人だっているだろう。なにが社会の歯車にはなりたくないだ、俺は社会の歯車であることを心から誇りに思うぜ!今はそんな気持ち。

僕みたいな奴らがたくさんいて国や世界は回っているんだと思えば、それだけで人生に立派な価値があるだろうと思えるようになりました。超大人じゃないですか?

もうちょっと言えば、家族友人、周りの人たちと仲良くしてたまに楽しい気分になって貰えれば、俺の素質からすれば上出来も上出来だろうみたいな。

このハードルの低い大人軸こそが、自分が納得して生きていくのに大切なものだと思います。「思い描いた大人になれなかった」なんて言っている真面目な人は俺が褒めたりますよ!えらい!でもやめろ!意識下げろ!

まぁ僕みたいな人間ばかりでは世界は全然発展しなかったでしょう。これで少年少女たちには大望を抱いて欲しいなとか思っているんだから、僕の考える大人って実に無責任なもんなのです。

おじーでした。

今週のお題「おとなになったら」